寄稿・投稿離嶼沓徊

沖縄は本島の他に多くの島から成る。那覇から離れた地にある宮古、石垣、西表などは先島諸島と呼ばれ、更に石垣、西表とその周辺の島々は八重山諸島の名が付けられている。
沖縄は古くは阿児奈波と呼ばれ、15世紀に統一王朝が成立した。その後琉球と呼ぶ独立した王国となった。琉球は中国と日本に朝貢していたが、島津藩が琉球の砂糖を独占するため17世紀初めより勢力を伸ばし、1872年(M5)に琉球藩を設置した。1879年(M12)に沖縄県と改称され、琉球王国は日本に併合された。
沖縄は本土と距離があるため、文化や慣習にかなり差がある。言語上では、本土の大和語と奄美諸島、沖縄本島及び先島諸島の各言語を各々独立した言語と分類したり、本土沖縄の言葉を別々に区分したりしている。
沖縄県と言っても、沖縄本島の方言と先島方言は著しい差があるので、同一グループに纏めるのは、かなり無理と思われる。

・与那国島を訪ねて

与那国は日本列島の一番西に在り、台湾から110km、那覇より510kmと台湾に近い島である。東京からは1900kmも離れている。戦前は台湾との交流がかなりあり、生活物資はほとんど台湾から運ばれていた。
石垣より130kmで、船は4時間かけて島の西にある久部良港に着く。横に長い形の島で東西10km、南北5~7kmの小さな島である。
島の中央部にはいくつかの山があり、集落は海沿いに西端の久部良(くぶら)、北側の祖納(そない)、と南側に比川の三つである。人口は1500人余で祖納が一番多く、町役場や診療所はここにある。
島を一周する道路と祖納から山を越して比川に向かう道が主要道路である。主な産業は砂糖黍、米そして黒牛である。米は二毛作で、月半ばに小学生が田植えをしていた。
東端の東崎(あがりざき)は一面の草原で、小型の与那国馬が放牧されている。縄文期に中国から渡来した馬で、在来種としては日本で一番小さい。天然記念物に指定されており、一時はかなり減ったが、今は150頭ほどに増えている。
崖の続く岬の北側にはアダンが一面に生えている。大型のアロエのような植物で、多肉性の棘のある葉の中に、丸くて堅い実がなっている。若芽は食用にされ、実は椰子蟹が好んで食べにくる。
与那国の人々は島の名をドウナンと呼んでいる。石垣ではユノオンといい、おもろそうしにはイニヤクニと記されている。
祖納から島を横切って比内に行く途中に、人解田(とぅぐだ)と呼ばれる田があった。昔、この田に住民を集め、他に入りきらない人々は人口制限の対象とされて、処分されたと伝えられている。
久部良港の高台にクブラバリと名付けた大岩の裂目がある。長さ20m、幅2~3m、深さは7~8mある。江戸時代、人減らしのために、妊婦を集めて岩の裂目を飛び越えさせた。転落死するものが多く、人減らしに用いられていた。
先島諸島では明治35年(1902)まで人頭税制度が残っており、15歳以上の住民は多額の税を払わなければならなかった。
東崎の南側は比川まで崖続きで立神岩、軍艦岩と名付けられた奇岩が海中に聳えている。立神岩は太めの柱状岩である。軍艦岩はサンニヌ展望台から見下ろす海辺にあり、一軍の大岩の塊が大船の様に見える。板状の岩層の重なりが、美しい縞状の筋目模様となっている
新鼻近くの海中には、海底遺跡と称される構造物がある。ダイバーの間では有名なポイントとなっており、古代の神殿などと言われて入る。平坦な台上の岩の並びに、垂直な壁に沿って幅の広い通路状の隙間が伸び、段状の階段とも思える形状岩が認められる。
確かに一見大建築物のようにも思えるが、付近の崖を観察すると、板状の岩石が厚く積み重なる構造層をなしている。風化した岩は平らな面に壊れ易く、人が手を加えたものと見間違うのも不思議でない。
アイルランドのアラン諸島のイニシュモアは岩だらけの小島で、崖下の平らな岩に真四角に切り取ったような大脇がみられた。人工的なプールでも造ったのかと思ったが、岩層の節理に沿って、自然に矩形に陥落したものであった。自然はともすると、人工物と見違えるような形状物を示すことがあるようだ。
比川は人口百人ほどの小村で、カタブル浜や比川浜の白い砂浜が広がっている。浜辺の山の麓には、TVドラマの舞台となったDr.コトーの診療所がある。屋根の上にコトー診療所の旗が掲げてあり、建物の入口には志木那診療所と書かれてある。西崎に至る海岸沿いの路は、コトーが自転車で走るシーンを撮った処で、隆起した珊瑚礁と草原に馬や黒牛が放牧されている。
因みにコトーのモデルとなった医者は、鹿児島の西にある甑島南端の小村、手打の診療所に勤めている。都会から移って僻地医療を志しており、現在でも若い研修医が彼を慕って訪れて来る。手打は森進一の母親の生地で、村はずれに「おふくろさん」の歌が流れる歌碑がある。
車の通らない海岸の舗装路を陽差を浴びながら歩いて行くと、浸食された灰色の石灰岩の間に、斃死した馬の骨が一頭分、白々と残っていた。岩と草原と人気のない海沿いの路は、昨年訪れた大東島の路とよく似ていることに気がついた。
久部良のナーマ浜の西端に西崎(いりざき)がある。日本最西端の碑が建っていて、晴れた日は台湾が認められる。
クブラバリの近くに製塩所の跡が残っている。かなり大規模な施設であったが、今は錆びた鉄骨の林と、壊れた屋根だけがある。環状の回廊になっており、海水を流下させながら風を用いて濃縮していたらしい。近年は製塩場が各地にあり、特に離島に多いが、作るのに時間を要するのと天候に左右されるので、雨の多い処では向いていない。
島にはクバの木が多い。クバはビロウの方言名であり、椰子科の棕梠に似た木で、葉は籠や団扇などの生活具にされている。
祖納は与那国に中心地で大半の人がここに住んでいる。ナンタ浜に面して港があり、集落のはずれの海沿いに、浦野墓地が広がっている。大型の亀甲墓が連なっており、測ってみると広さが7x15mもあった。最大の墓には邸宅と見違えるもので、高い屏に大門があり、庭を備えた十坪程の廟が建っている。扉の中は棺を納める部屋で、入り口わきには墓参の人が憩えるように、長椅子と卓が設けてあった。
亡くなって7年経つと洗骨する習慣がある。この頃になると体は骨だけになるので、骨をきれいにして、改めて墓に埋葬する。洗骨に用いるために、アルコール度数60の「ドゥナン」焼酎が醸造されている。
通常焼酎はアルコール30度位までしか認可されていないが、与那国島では特別な用途として例外的に認められている。勿論今では飲用される量の方が多い。
村の後方は70~80mの崖が続く高台になっている。崖の前面は風蝕によって大きく刳られており、ティンダハナタと呼ばれている。200mも続く半ドーム状の洞で、ここから祖納部落が一望できる。
ティンダハナタには、16世紀末に与那国を統率した女性の英傑サン・アイ・イソドの休処や、久米島より漂着した女性と犬が暮らした洞窟がある。風蝕洞の上部には草原が広がり、黒牛の放牧地としてヌックイタと呼ばれている。
祖納の南に位置する宇良部岳(231m)の麓に、アヤミハビル館がある。アヤミハビルは綾模様の蝶の意で、与那国蚕の地方名である。世界最大の蛾で、幅が20数cmになり、ゆったりと飛ぶ姿は鳥のように見える。仲間のヤママユ蛾はアジアに広く分布し、同種は台湾や中国にも生存している。
アヤミハビル館では卵を飼育して羽化までの変化を見せている。3月~4月が羽化期であり、ちょうど蛹から孵った蛾が木の枝で羽を広げていた。ここでは与那国の動植物を集めて展示しているが、離島のため、固有署の昆虫や植物が多くある。
島の野草としてボタンボウフウがある。葉が四烈したクローバー状になっており、茎葉ともに柔らかい。最近これに抗酸化成分が含まれていることが解り、資生堂が栽培を奨励して、その畑が広がっている。長命草と名づけて、美容や薬用効果を謳って商品化している。草地に生えているこの草を摘んで、麺と共に茹でて食べてみたが、食感もよく、ハーブの様な香りがして、菜としてもいけると思った。
島の周りは黒潮が流れる岩場が多く、鮪、鰹、カジキの漁場になっており、刺身か蒲鉾が美味である。
沖縄や先島諸島は台風の通り路である。2015年の春は秒速81mの大風を記録し、立木は倒れ、家々の屋根は壊れて大きな被害が出た。
村の小型バスは風に飛ばされて壊れたために、村では6人乗りの車を使って三つの集落を巡っていた。
バスは無料であるが、いつも2,3人しか乗っておらず、私一人の時も多かった。以前も風速73mの台風に襲われたそうである。風速は30mでもかなり強く、40mを超える風は滅多に無いので、70~80mの強い風はどの位激しいのか想像もできない。
祖納の高台に与那国伝統工芸館がある。島に伝わる織物作りを実演して見せており、クバの葉や蕁麻(いらくさ)の織物を染色して布を織っていた。
東崎の近くに風力発電の大型風車があるが、回転翼が台風のために破損しており、修理中である。その近くに17世紀に設けられた遠見番所跡がある。
今は石垣しか残っていないが、グテイイクチテイと呼ばれる番所で、当時は3人の番人が駐在しており、船が来ると早馬を走らせて「ンネーンネー(船々)」と叫んで村主に報せた。
与那国は我国の西端で、中国とは尖閣諸島問題で緊張関係にあるため、国境防衛の目的で、2016年の春に150人余りの自衛隊員が本土から移駐してきた。隊員宿舎や職務棟、発電所、備品庫および通信装置などの付属施設が短期間で建設されるため、港には多くの資材が運び込まれ、丘の上にはレーダーサイトや大型の建築物、塔などが造設されていた。
人口1500人の小島にとって一割の人口増は大きな変化であり、食事や酒を提供する店や、日用品、娯楽施設などが必要になってくる。そのため建設関連の人々が急増しており、旅館や民宿はどこも満杯状態だった。島を訪れる人は少ないだろうと思っていた私は、宿捜しに一苦労してしまった。
3月でも気温は25度になり、極寒の北海道とは異なり、半ズボンとTシャツで過ごせる陽気であった。
与那国には飛行機も石垣から飛んでいるが、乗客数が少ないので専らフェリーが利用されている。フェリーは海が荒れると欠航となるし、一週間に2往復しかないので、余り便利でない。

池添 博彦