ホーム活動報告・会報記事寄稿・投稿「東京オリ・パラ2020+1」から障害者スポーツの発展に向けて

寄稿・投稿「東京オリ・パラ2020+1」から障害者スポーツの発展に向けて

はじめに
私は精神科医として、「季刊東京精神科病院協会雑誌 153 2021年冬」の時評欄への執筆を2021年8月に依頼された。当時の社会の話題は前年から続くコロナ禍と、それによって1年延期された東京オリンピック・パラリンピックであった。前者は既にとり上げられていたので、精神医療におけるスポーツの発展を願って、オリンピックから障害者スポーツを論じた。
季刊誌であったため、執筆から発行まで時間がかかって旬の味はなくなったが、同誌を読んだ同期の畏友・藤村小弥太氏に同窓会誌への投稿を強く勧められ、応じたものである。昨年夏にタイムスリップして、一読していただければ幸いである。なお読者層を考慮して一部改変した。

1.東京オリンピック2020

コロナ下での無観客開催

新型コロナ感染再拡大で緊急事態宣言下の、1年延期された東京オリンピック2020(2021年7月23日~8月8日)について、開催前は反対多数の世論調査結果が、無観客ながら終わってみれば、「やって良かった」が多数となる逆転現象を呈した。
開催によって、白血病を克服した池江選手をはじめ、この日のために積み重ねてきた努力が報われたと感謝するアスリート達。一級のスポーツを主としてライブのTV観戦や、マラソンなどを街路で見て楽しみ、興奮して盛り上がった多くの人々をみると、医療の逼迫と膨らんだ財政問題等を除けば、やって良かったといえよう。
ただし、1年延期した際に、IOCが莫大な放映料に依存する米国TV局 の要望による酷暑の夏でなく(米国の視聴率は激減)、コロナの名目で1964年の東京オリンピック同様、最適の気候の10月まで延期すべきだった。そうすれば札幌マラソンで多数の中途棄権者を出す悲劇もなく、10月の感染者数激減の現実から、有観客もあり得たと悔やまれる。

スポーツのもつ感動の力

1年半に及ぶ長期の自粛生活で、大谷翔平選手の大リーグでの投打の活躍が唯一の明るいニュースという時期に、久しぶりの世界的スポーツの祭典、特に日本勢の大活躍(史上最多のメダル数58個)に盛り上がって、感染拡大の一因とされる外出増加につながったのは事実であろう。その一方で、不自由な自粛生活の中での久しぶりの活気が人々の免疫機能を高め、感染に対する抵抗力を増した一面もあったのではなかろうか。
2013年に行われた2020年大会の開催国選考会で、日本に決定づけた招致スピーチは「お・も・て・な・し」ではなく、パラリンピック陸上の佐藤真海選手が東日本大震災時、郷里の気仙沼市での被災体験とアスリートらの激励訪問について語ったものといわれる。彼女の以下の言葉は上記の裏付けとなろう。「・・その時初めて、私はスポーツの真の力を目のあたりにしたのです。新たな夢と笑顔を育む力・希望をもたらす力 ・人々を近づける力・・」。

復興五輪と新しい潮流

大会の招致理由が“復興五輪”でありながら、コロナ禍での無観客や聖火リレーの簡略化などで形骸化したことは残念であった。しかし、大会の皮切りに福島で行われた女子ソフトボールの初戦突破から勝利を重ねての金メダル獲得は、“盛り上がり“効果と共に”復興五輪“を印象づけた。女子ソフトボールと共に今後五輪から消える野球の“侍ジャパン”も、福島での初戦に逆転勝利するや、全勝で初の金メダルを手にした奮闘に、活力と希望を得た人も多かったはずである。
スケートボード・女子ストリートで、13歳の西谷椛選手が最年少金メダリストに輝くと、五輪の新競技、スケートボードが一気に注目を集めた。女子パークに出場した岡本碧優選手(15)が4位に終わって涙すると、外国の選手にハグされ、肩に担ぎあげられる光景に、多くのTV観戦者は驚きとともに、新鮮な感動を味わった。「スケボーには表彰台以外にも得られるものがある」とは担ぎ上げた米国選手の言葉で、「相手と競い合うことより、自由で創造的な遊び」というスポーツの一面を衝いたものといえよう。昔ながらのオリンピックの目標、「より速く、より高く、より強く」とは異なる今大会のもう一つのテーマ、「多様性と調和」の体現でもある。

スポーツとオリンピック小史

ここで「スポーツとは何か」について、もう一度見直す必要があるのかもしれない。我が国ではスポーツとは大正時代に欧米から入った野球やテニスなどを指し、学校教育(体育)に深く関わっていた。そして柔道や空手などの武道も含めるようになったのは戦後のことである。
その定義を紐解くと、「一定のルールに従って勝敗を競うなど、楽しみを求める身体活動の総称」とあり、語源的には「気晴らしをする、楽しむ」という要素も重要とされる。その昔、栄光学園山岳部長の“天狗さん”ことシュトルテ神父の一言、“登山はスポーツではない“が頭から離れないが、果たしてどうであろうか。”スポーツクライミング“などが登場すると、ますます分からなくなる。なお、“体育の日”が“スポーツの日”に替わり、スポーツ庁が厚労省ではなく、文科省傘下に新設されたことは、遅まきながら今大会の成果である。
戦争が絶えなかった古代ギリシャで、スポーツは戦争に代わる「平和の象徴」として重視され、BC 776年に古代オリンピックが始まると、4年毎1000年以上続いたが、宗教上の問題で終焉を迎えたといわれる。
一方、フランスのクーベルタン男爵は普仏戦争後の不穏な欧州情勢の中で平和を取り戻すべく、古代オリンピックの復活を目指して奔走の結果、1896年ギリシャのアテネで第1回近代オリンピックが始まり、IOCの主導で4年毎に開かれることとなった。

オリンピズムとは

近代オリンピックの精神(オリンピズム)はその憲章にあるとおり、スポーツを文化、教育と融合させた生き方を探求し、平和な社会を推進するという高邁なもので、フェアプレーの精神、相互理解、友情、連帯、尊重が謳われた。そしてスポーツは平和への貢献とともに、人権の一つでもあるとされ、あらゆる差別の撤廃が近年特に重視されている。その象徴が難民選手団の参加や、トランスジェンダーであることを公表した選手の登場であった。
北京冬季五輪が人権侵害のある中国で行われるに際し、外交的ボイコットが起こったのはオリンピックの政治的悪用ではなく、憲章に則ったものといえよう。しかし、北京パラリンピック中にロシアのウクライナ侵攻が始まったことを考えると、オリンピックの戦争回避力の限界を感じないわけにはいかない。

2.東京パラリンピック2020

57年間の飛躍

約2週間の間をおいて8月24日に開幕したパラリンピックには、162の国と地域、難民選手団の選手約4400人が参加、我が国からは史上最多の255人が参加して、獲得メダル数は51と過去2番目の多さであった。開会式の視聴率も23%以上で、SNS上でもオリンピックの時より好評であった。
教育的効果から小中高生の観戦を認める方針でスタートしたが、丁度その頃若年層への感染の拡大で中止する学校や父母が増え、実際に会場に出向いたのは東京、千葉、埼玉の生徒1万5千人余りとなったのは誠に残念であった。なお、街中で観戦可能なマラソンは当初の予定通り東京の名所を巡るコースで、暑くはない気温のもと行われたのは幸いであった(視覚障害の女子、道下美里選手金メダル!)。
1964年の東京オリンピックのあとに行われた第2回パラリンピックは、オリンピック選手の練習場として使われた代々木の織田フィールドで、21か国約380人の選手、9競技と小規模に行われた。今大会はほぼ無観客とはいえ、オリンピックと同じ競技場で、参加選手数4400、22種目に、支援するボランティア2万人弱と、前回とは雲泥の差があり、時の流れを強く感じさせられた。オリンピックの式典の中でも初めてパラリンピックへの言及があり、互いの併存が強調された意義は大きい。“オリ・パラ時代”の幕開けである。

パラリンピックを生んだ一医師の執念

パラリンピックの歴史には第二次世界大戦が深く関わっていた。ナチスドイツから英国に逃れたユダヤ系神経外科医、Ludwig Guttmannは1944年、ロンドン近郊のストーク・マンデビル病院(写真1972年当時)の脊髄損傷センターの主任となり、戦争で傷ついた多くの脊髄損傷患者の治療にあたった。
彼らの治療・訓練に、スポーツが筋力、共同運動、スピード、持久力の回復などに有効であること、スポーツの楽しみによって患者の心を開く効果があり、入院期間の短縮と社会復帰に役立つと主張し、実践し続けた。彼のスローガン「失われたものを数えるな、残ったものを最大限に生かせ」のもとに、車椅子ポロ、車椅子バスケットボール、アーチェリー、水泳、卓球などが行われ、ロンドンオリンピック開会の1948年7月28日、第1回ストーク・マンデビル競技会が行われた。翌年の表彰式でグットマンは「この競技会が国際的となり、身体障害者にとって、オリンピックと同じように、世界的に有名な大会になるだろう」と述べた。
この競技会は毎年行われて、彼の予言どおり、次第に参加者は増えて、国際的にもなっていった。1960年のローマオリンピック後に開かれた大会には、実に21か国400人の選手が11競技に参加。そして1989年国際パラリンピック委員会(IPC)が設立されると、後付けながらローマ大会が第1回パラリンピック大会と正式に認定され、1964年の東京大会が第2回とされたのである。
なおパラリンピックのパラは(対)麻痺からきているが、並行、類似の意味もある。開会式で入場行進の先頭が英国選手であるのは、上記のような発祥国への敬意を表している(因みにオリンピックではギリシャ)。

“第2回パラリンピックの生みの親“と上皇ご夫妻

1964年のパラリンピック東京大会の実現には、グットマンに共鳴した日本人整形外科医師の存在が欠かせない。1960年ストーク・マンデビル病院に短期留学した国立別府病院整形外科医長・中村 裕博士(33歳)である。熱血医師・中村は1961年大分県身体障害者体育協会を設立し、1962年国際ストーク・マンデビル大会に二人の車椅子選手を派遣。そして1964年の東京パラリンピック大会の実現に奔走し、まさに第2回パラリンピック東京大会の生みの親と呼べる活躍ぶりだった。
さらに、彼は当時パラリンピックが欧米中心であったのに鑑み、アジア・オセアニア地域での身体障害者の競技大会“フェスピック”を開催し。地元大分市では世界初の国際車椅子ハーフマラソンを実施。そして別府市に「太陽の家」と名付けた身体障害者の作業工場を作るなど、実に幅広く活躍した。彼の功績で忘れてはならないのは、グットマンが頑なに脊髄損傷に限定していた選手を他の身体障害にも広げたことである。
上皇ご夫妻は皇太子時代から障害者スポーツの熱心な擁護者で、1965年以降、毎年国体後に行われる大会に、天皇杯、皇后杯を授与されている。また中村 博士との交流をはじめ、1976年訪英の折、ストーク・マンデビル病院をご訪問、“パラリンピックの父“グットマン卿とも再会された。

パラアスリートの無限性

日本は今回で2度の夏季大会のほか、1998年の長野冬季オリンピックのあと、冬季パラリンピックも開催した。それらの大会への国を挙げての準備に比べ、終了後の選手への支援等の激減という大きな課題は残るが、開催の度に世間のパラスポーツへの関心、周知度を高める効果は非常に大きい。
こうして醸成されたパラリンピック・ムーブメントは「可能性の祭典」と共に「すべての人が共生する社会」を象徴するものとなり、今大会ではオリンピックと同様、「多様性と調和」が強調された。そこではオリンピック以上に、マイナスな感情を乗り越える勇気、困難にもめげず、限界を乗り越えようとする強い意志、人々の心を揺さぶり、駆り立てるインスピレーション、多様性を認め、創意工夫により、誰もが同じスタートラインに立てる平等性を強く人々に訴える。パラリンピック選手が「障害は不便ではあっても不幸ではない」と言える心境は崇高である。
多くの競技で身体障害、視覚障害等を乗り越えてプレーする姿に驚き、感動させられたが、両上肢がないエジプトの卓球選手が足指を使ってサーブし、口にくわえたラケットで球を打つ姿には驚嘆させられた。一方義肢などの装具の進歩も著しく、両側義足の走り幅跳び選手がオリンピック選手並みの記録を出す“超人スポーツ”には、驚きと共に明るい未来を確信させられる。
昨今パラスポーツは一般人にも人気が出て、ボッチャや車いすバスケットボールなどを障害者と一般人が共に行うこともあり、ユニバーサルスポーツと呼ばれる。障害者への偏見打破に有効である。

3. 知的障害者とスポーツ

ケネディ家の関与

世界的にみた知的障害とスポーツにおいては、ケネディ家やケネディ大統領の関与が大きい。それはジョン・F・ケネディの妹が知的障害者であったため、別の妹(ユニス)が1962年、自宅の庭に知的障害者を招いてキャンプをしたのが始まりといわれる。
そして1963年、ケネディ大統領が「精神病及び精神遅滞に関する大統領特別教書」を発表し、「われわれは国民として、今まで長い間、精神病者および精神遅滞者を無視してきた・・。この無視は終わらさなければならない」と高らかに宣言。このあと精神障害者に対して、長期入院から地域での治療へという大きな転換が広まった。

スぺシヤルオリンピックス

一方、ケネディ財団の支援とカナダ人、F.ヘイドンらの尽力で1968年7月、シカゴの競技場で第1回の知的障害者の夏季国際大会が開かれ、同年12月、スペシヤルオリンピックス団体が設立された(specialには知的障害の意もある)。なお他にオリンピックの名を冠したものに聴覚障害者の競技大会・デフリンピック(Deaflympics)があり、その始まりは1924年というから、驚くほど早い。
我が国でも1980年4月、鎌倉市の山本貞彰によってジャパン・スペシャルオリンピックス委員会(JSOC)が設立され、ワシントンDCの本部から世界で42番目の組織として認可された。1983年の第6回夏季国際大会(米国バトンルージュ市)に選手団を送ったが、JSOCは1992年に解散。その後1994年、細川護熙(栄光学園中学校卒)元首相の細川佳代子夫人によりスペシャルオリンピックス日本(SON)が設立され、今日に至っている。我が国で行われた世界大会は2005年に長野で行われた冬季大会が唯一のものである。
我が国では地区毎の活動に重点を置き、東京支部では週毎のスポーツトレーニングプログラムのほか、合唱、絵画、木彫などの文化活動も取り入れている。その成果は種々の規模の競技会で試されるが、年齢、性別、競技能力等による複雑な分類が行われ、“アスリートの全員表彰”が特色となっている。なお参加した知的障害者の親の手記を読むと、異口同音に親子共々スポーツによって見違えるほど明るく、元気になったことが伝わり、感動的である。

知的障害とパラリンピック

パラリンピックへの知的障害者の参加は1996年アトランタ大会からであり、冬季大会は1998年の長野パラリンピックのクロスカントリー1種目であった。ところが、卓球、陸上、水泳、バスケットボールの参加が認められた2000年シドニー大会で、男子バスケットボールで優勝したスペイン代表の中に健常者がいたことが発覚して、その後暫く知的障害クラスの実施が中止された。しかし、2012年のロンドン大会から再びバスケットボールを除く、陸上競技、水泳、卓球への参加が認められている。
参加要件にIQ75以下で、精神科医の診断その他がある。障害の有無が一見しただけでは分かりにくいのは、精神障害以外では上記の知的障害と聴覚障害であろう。聴覚障害のみでのパラリンピックへの出場は認められず、代わりに既述のデフリンピックがある。なおパラリンピックに精神障害のクラスはない。

4.ソーシヤルスポーツ、運動と精神医療

精神医療を受けている者に上記のような競技大会に参加させることは、治療中であるだけに難しいといわれるが、急性期についてはともかく、慢性期の統合失調症、うつ病や神経症については、グットマンが脊髄損傷患者のリハビリにスポーツを熱心に用いた行き方を見習う必要はあろう。

スポーツ精神医学

「スポーツ心理学」に遅れること約半世紀の1987年頃に「スポーツ精神医学」が生まれたが、スポーツ選手の診断と治療を目的としたものであった。プロスポーツ選手のメンタルヘルスの維持やメンタルトレーニングの必要性は、テニスの大阪なおみ選手のフレンチオープンでの記者会見ボイコットやうつ病罹病のカミングアウトで話題となったように、プロ選手ならではの過酷な心身の負担があり、スポーツ精神医学の出番である。

ソーシヤルスポーツ

精神障害者のスポーツ大会が我が国で最初に開催され、組織化されたのは1999年といわれる。2001年に宮城県で第1回全国精神障害者バレーボール大会が開催され、2008年には、1965年以降毎年国民体育大会後に行われている全国障害者スポーツ大会にそれが組み入れられた。
2011年には精神障害者フットサルチームがイタリアに遠征、そして2016年には堺市で、第1回ソーシヤルフットボール国際大会が開かれるまでに至っている。ここでいうソーシヤルとは精神障害のある人に限らず、高齢者など誰でも気軽に参加できるという意味合いもある。筆者は既述の他の障害に伍して、精神障害者スポーツの国際組織・“メンタリンピック”の誕生を願っている。

精神科臨床での運動とスポーツ

最後に、大会や組織を離れて、精神科の臨床場面での運動、スポーツについて触れたい。運動が不安や抑うつ、認知機能に効果があることは脳科学的にも明らかにされているが、統合失調症のレジリエンスを高め、リカバリーにも役立つとの報告も出てきており、病院では早期から多様な患者に運動、スポーツをもっと取り入れる努力が望まれる。
体力・健康増進としての日々のラジオ体操や口腔体操はもちろん、競技を楽しみ、勝負に夢中になれればより理想的である。勝利の喜びとそれで得られる活力と自信は障害の有無にかかわらず、人類に共通したものである。病院では卓球、バレーボール、フットサルなどが行いやすく、スペースが限られた所では輪投げ、ボッチャなども取り入れられよう。
一方、我が国の誇るべき学校行事であり、精神科病院でも広く行われている春秋の運動会はもちろん、夏の盆踊りは音楽と集団での踊りという、芸術と運動の優れたコラボであり、今後とも末永い継続が望まれる。
一人ででき、楽しめるものにウオーキングと散歩がある。スポーツ、体操ができない人でも可能であるので、外出可能な入院患者には必須のプログラムとしたい。最初はコンビニへの往復が“散歩“とされがちだが、本来の散歩は目的のない道草の要素、気ままに小さな発見や楽しみも伴うものである。それができるか否かで、病状の回復程度の診断にも役立つ。
外来患者でも億劫、だるさ、意欲低下で臥床、閉居がちとなり、人嫌いや不安症では外出自体が難関で、外来通院が唯一の外出という者も少なくない。犬を飼っていれば、犬に引っ張られての外出から始めるなど、時間、場所なども工夫して、なんとか最初の一歩を踏み出す指導・支援が求められる。それには精神医療従事者自身がスポーツマインドを持つ必要があろう。

(神経科土田病院 特別顧問、帝京大学名誉教授)

参考文献

  • ・特集「パラスポーツと外来精神医療」. 外来精神医療. 21巻,2号、2021
    (大西 守、吉野 聡、待鳥浩司、永井 宏、鎗田英樹、岡村武彦氏の論考)
  • ・田中圭太郎:パラリンピックと日本―知られざる60年史. 集英社、2020
  • ・日本スポーツ精神医学会編:スポーツ精神医学. 診断と治療社、2009
  • ・山口達也、三村 将:トップアスリートと精神科医の役割. 精神科38:387-393. 2021
  • ・スぺシヤルオリンピックス日本・東京 会長 岡松武司氏の教示(2021年8月)

写真 西郷恵一郎氏撮影・提供

3期生 広瀬 徹也